栄養説の変遷
リービッヒは無機栄養説を唱えただけでなく、窒素不要論、腐食による栄養略奪論も説いた。
その内の無機栄養説を正しいとし、他の論を間違いとしたのが、そもそもの間違いの元だった。
• 施肥の起源
o 腐食栄養説
o 腐食栄養説から無機栄養説へ
o 窒素不要論の否定
o 新しい原理に基づく養分供給
o 無機栄養、堆肥農業の破綻
• 間違いの元(全部が正しい)
o 肝心なものが抜けている
o もう、知らなかったことに・・・では通らない
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• 肝心なものが抜けている (抜粋)
明確な法則・理論の提示もなく、闇雲に事例(試験結果)をどれほど並べてみても、科学(真実の探求)にはならない。自然の事象を観察し、洞察力を働かせ法則を見付け、理論化・体系化。実証・論証、事象を再現して始めて科学と呼べる。農学には肝心な法則が抜けている。
農業は厄介なことに命(生命体)を扱う仕事。見ることの出来ない“いのち”が関与している。“いのち”を表現(具象化)したものが生命体。“いのち”の属する世界には法則がある。そして、その法則がこちらでも働いている。
「あちらとこちら=あの世とこの世」に同時に働く自然の法則の問題故に、自然の側に基準を於いた農法の提唱、技術獲得に、あちらをカンニング出来る霊能力を必要とした。カンニングさえ出来れば良いわけでシュタイナー、岡田、島本とも説いただけで実践者ではない。
現在でも「植物の有機成分の吸収は僅かしかない」「微生物による窒素固定だけではN必要量を満たせない」と言われている。これは単に、有機成分の吸収や微生物による窒素固定を過小評価しているといった次元の問題ではない。
良識(常識)のある科学者なら「場」の違いを無視しての評価はしない。正反対の答えが出たら正反対にしている条件(場)=別の次元を先ず検討するのが常識だろう。ところが学(のある)者の悲しい習性?、自分の持っている知識と照合しただけで結論を出そうとする。
言い方を替えれば「基準の置き所をこちらからあちらに」(リービッヒの場合は施肥から無施肥に)移す。それをせずに評価すればトンデモと同列。リービッヒに対する批判・評価は、肝心なこの常識の欠如の結果と言える。
・ もう、知らなかったことに・・・では通らない(抜粋)
何事も両面を知らなければ正確な判断は出来ない。生きている自然の仕組み(摂理)に則った農業は語れない。 リービッヒの次元(視点、基点)は、施肥栄養説を基礎とする現在の農学より一つ上(多い)。施肥条件下のことだけなら現在の農学で間に合うが無施肥条件という次元が加われば、この様な仕組み(地下微生物相・量の極大化と地上生物の単一・一様化)を理解してからでないと、リービッヒを正しく評価出来ない(してはいけない)(資格がない)。
人は全く理解できないことに出会うと無意識的に思考外に追いやってしまう。「見なかったことにしよう、知らなかったことに・・・」である。思考回路のオーバーヒートを防ぐ自己防衛本能だろう?。
知らないことは考えようもない。批判者を批判しているわけではない。しかし、知らないからといって相手(自然)が変わってくれるわけはない。我が身(頭?)に影響ないとも限らない(^^)。知らないものを「捨てないこと」この肝心なコツをつかめていないのがあらゆる分野での場違い現象=災いの元(論争の元、究極は殺し合い=戦争の元)。
リービッヒは「農芸化学の父」と呼ばれているが「未来(本来の)農業の父」とでも改めた方が良い。
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