8月16日の朝、ある方から電話をもらった。
『今朝、新聞を見ると、「4歳の子が下痢で亡くなった。その子が食べた白菜から、0(オー)157菌が検出された。白菜の消毒が足らないことが原因。保健所は、野菜を次亜塩素酸ソーダで殺菌して、食べるように、指導している」とある。そのことを、どう考えたらいいだろうか』と。
前日には、終戦記念式典で、首相は、「不戦の誓い」を新たにすると、言っている。
日本では、8月になると、それが唱えられる。
日本人の多くは、少なくとも、それを理想にしている方も多い。
しかし、政府だけでなく、ほとんどの国民が、「不戦の誓い」を農や食にはしていない。
じつは、O157菌の消毒のために、農産物を殺菌することは、一つの戦争ではないかと考える。
戦争、それは、人間同士が殺し合うこと。
しかし、人間は、毎日、植物や動物の命をいただいて、生きている。
それは戦争とは言わない。
なぜ?
動植物の命をいただいて、その命を活かして、
世の中のために、働いているからではなかろうか。
命はみんなのもの、誰のものでもない。
自然の仕組みは、地球上のすべてが、命を廻しながら、
みんなが持ち味を発揮して、生きるように、なってある。
人間が、その自然の仕組みに沿って、自然基準でやっていれば、命は活かされる。
二つの基準がある。人間を先生にする基準と自然を先生にする基準。
自然基準でみると、
野菜が腐敗しているから、O157菌が寄ってきたのであり、
野菜が腐敗した原因は、土にある。
元々、育った土が腐敗環境だったから、野菜が腐敗しているにすぎない。
いま、虫が寄ってくる、病気が出る、そういう野菜畑は、多い。
それは、土が腐敗しているからだtとは、ほとんど知られていない。
化学肥料を使っても、有機堆肥を使っても、腐敗型になれば、そうなることを、自然が教えてくれる。
収穫した野菜は、冷蔵庫に入れても、腐敗が進んでいく。
それは避けられない。だから、鮮度が大事になる。殺菌剤が必要になる。
ところが、土が腐敗でなく、発酵している畑で、野菜を育てている農家もある。
それは、昔からある農法で、山の森の仕組みを効率的にしたもの。
ただ、単なる自然農法とは異なる。自然のマネをしては、収量は上がらない。
それは<炭素循環農法>や<たんじゅん農法>(ホームページあり)として、
徐々に、この数年、日本とブラジルで、実践されて来ている。
土が腐る肥料は入れないで、炭素/チッソ比の大きい、チップや枯れ草などを、土と和えている。
その野菜は味も良く、収量も上がり、虫も病気にもやられない、発酵型の野菜になる。
収穫した野菜は、冷蔵庫に入れなくても腐らない。
むしろ、一週間後、熟成しておいしくなる。
発酵は、命を組み立てていく、自然の仕組み。
腐敗は、命を放出していく、自然の過程。
自然の仕組みには、その二つしかない。
畑を、腐敗型にするか、発酵型にするかは、人間がやること。
畑だけでなく、稲も、家畜も、人間も、自然から観れば、一つの法則にしたがっている。
人間が、腐敗型にするから、その環境に病原菌が寄ってくる。
それで、人間が死ぬのだったら、それは、間接的な「戦争」といえよう。
誰しも、戦争は嫌だ。
でも、不戦の誓いをしても、戦争はなくならない。
武器や農薬が、戦争をするのではない。
「人間基準」である限り、なくならない。
農や食に関わるものが、腐敗と発酵という命の仕組み、「自然基準」を知り、
発酵型で、土づくり、生き物育て、食べものつくりの実践・応援。
そんなチャンスに、オー157事件がなれば、同じことは起きなくなる。
「腐敗型社会」では、いくら不戦や無農薬を掲げても、戦わないと生活できない。
みんなが活かし合う「発酵型社会」では、武器も農薬もいらない。
発酵の元は、命のエネルギー。タダで、無限に循環している。
日本は、もともと、発酵文化、和の文化、自然基準の文化である。
「不戦から発酵へ」。人間基準から自然基準へ。
昨年の3.11は、復興のときでなく、自然基準への反転の契機。
農や食で、日々、実践練習がはじまっている。
自然基準に立つ社会。それが可能かどうか、<人>の叡智がいま試されている。
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しろ ゆうじ
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