炭素循環農法のhpに、新たな記事が載りました。

自然のピラミッドと生物多様性についてです。

http://tan.tobiiro.jp/jissen/tenkan2.html

農耕地では多様性も・・・

現れ方が違い正反対。地上部の「単一性」いう形で現れます。必要(役目)のない全ての生き物は圃場から消えます。畑からはミミズが消え、カタツムリやナメクジ、ヨトウムシやアオムシ、アブラムシやダニ、厄介な雑草などが消えます。
水田(水中、地上部)からも雑草が消え、虫(イトミミズやタニシ、水生昆虫など)が消えます。結果としてそれらを捕食する虫(益虫)も、カエルやトンボなどの小動物も消えます。
しかし、圃場以外の土手(畦)や水路などもあり、彼らの生息場所がなくなるわけではありません。絶滅の心配はないと思われます。
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消えるのは当たり前(モノカルチャー化)

邪魔者は自ら消えます。病害虫がいなくなれば、益虫も無用。当然、同時に消えます。でも、勘違いしないで下さい。今迄(施肥・防除栽培)のように消す(殺す)のではありません。
地上部での役目(浄化作用)がなくなれば、消えるのは当たり前。不思議でもなければ、何の不都合も生じません。防除は結果。目的でも手段でもありません。
役目(浄化作用):
意識、物質両世界とも、“いのち”の作用の結果、必ず汚れる。そのため、自浄装置(免疫機能)が備わっている。生物界では害虫・病害菌・雑草がそれに相当する。
何の不都合も:
何処(地上、地下)にも、悪者(害虫・病原菌)も正義の味方(益虫・有用菌)も居ない。むろんスーパーヒーローなど居るわけない。特別な存在や対立したものはなく、全てが支え補い合っている。特定(対立や協力)の関係に見える現象や、特別の働きをする者(物)だけを、別にしても意味はない。それら全ては、人の「脳作業」の結果。過去の「農」が作り出した幻影。

一見、無関係に思えるスズメやカラス、モグラやネズミ、イノシシさえも消えてしまいます。原理は簡単。病害虫を含め全ての虫や菌、雑草、害鳥・害獣などにとって、生息に適さない清浄な環境になるだけのこと。
地上は地下の反映。どんなに清浄化しても、大量の土壌微生物の“いのち”に支えられているため「水清くして不魚住」にはなりません。頂点(作物)は、地下の繁栄を一身に集め、それ(“いのち”)を表現します。
清浄な環境:
病原菌: 腐敗分解できる作物がない。
畑の雑草: 厄介な雑草は、腐敗のない団粒化した、柔らかい土は適さない。
水田の雑草: 腐敗が消え、土壌中の酸素量が増えると種子が発芽できない(無酸素状態で発芽)。
害虫: 腐敗しやすい作物でなければ食べられない。
スズメやカラス: 常に腐敗がある人里に適応した食性(腐敗味を好む)を持つ。スズメは腐敗のない水田の米は食べない。
モグラ: 腐敗がないため餌のミミズがいない。
イノシシ: ミミズなどの虫がいる「餌場の臭い=腐敗臭」がしないと、圃場に入っても素通りする。
シカ: 清浄度とは無関係?。生息地の荒廃や過繁殖による餌不足。最も餌の少ない早春、新芽を食べに来る(里から芽吹く)オオカミの代わりにヒトが食べてやる必要がある。
サル: ??。サルに聞け。ヒトと近縁のため捕食厳禁。共食い病=プリオンの異常による海綿状脳症(狂牛病BSE)の危険性あり。

農耕地での多様化は地下(土壌微生物)で起きます。見かけの多様性は失われ最終的に、地上部は作物だけ。自然状態とは正反対の「単一栽培化=モノカルチャー化」です。
水田はイネを育てる場、畑は野菜や穀類などを育てる場。それ以外の生き物は一切不要。邪魔です。規模の大小に関わらず水田にはイネだけ、畑は野菜だけ、果樹園には果樹だけで良いのです。
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上下(“いのち”の量)

生態系ピラミッドの変化

上図: 一般的な生態系(食物連鎖)ピラミッド
出典:矢作川流域森林物語(豊田市役所森林課)

下図: 農法の違いによる生態系ピラミッドの変化のイメージ
(空色:地上部、茶色:地下部)
自然状態では下が脆弱。炭素循環では絶対量が多く下が豊か。施肥では下が極端に貧弱。減肥や有機では下が、それなりに増える。自然猿真似は絶対量が極端に少ない。
「見える部分(地上生物)と見えない部分(土壌微生物)」=「上下」は、一方が増えれば他方が減る。順序は「下の多様・増大化 → 上の一様・単一化」という関係です。
但し、この上下生物量の反比例現象は、土壌の腐敗をなくし、その生物量を十分増やした時でなければ顕著になりません。未だ、増える余裕がある内は一方だけが変化し、上下が連動変化し難くなるためです。

農耕地では、下(土台=土壌微生物)を最大限まで増やした時、上も最大になります。それが、その「地」で生きられる(表現できる)“いのち”の最大量になるわけです。現時点(2011)では、慣行の2~3倍以上ということしか分かっていません。

図示すれば一目瞭然(右下図)。このように、地上部の“いのち”の殆どが地下(土台に相当)に潜ってしまい、地上(建屋に相当)には樹木もなく、一様・単一化した時、土壌の保全(浄化、保水)力、生態系の安定度は最大になります。
“生きているもの”=“いのち”の量の問題であって、見かけ上の問題ではないからです。単に、樹木(一部しか生きていない)が大量にあれば良い。という訳ではありません。
“いのち”の量:
多様性の逆転現象は、あちらの法則の一つ「“いのち”の保存則」の現れ。これは、物理の「エネルギーの保存則」の元でもある。物質世界では、たとえ無量の“いのち”であっても「量」の規制から逃れられない。般若心経には「不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。」と解説されている。
生物量(バイオマス)と“いのち”の量は厳密には違う。無量の“もの”故、密度(物性)と捉えた方が適切。物なら濃度、波なら波長=周波数。同じ波高なら、波長が短い(周波数が高い)ほど高エネルギー。“あちら”系の者が「波動」が精妙(高い)、粗い(低い)と表現する理由がこれ。

施肥栽培では、逆ピラミッド状態。土台を固めなければ、上は崩壊します。無理矢理、上を一様・単一化すると、下も同時に単一・弱体化し、保全力を失います。その大規模な典型例が、良く知られている「緑の革命」による農耕地の疲弊・荒廃です。

「だから多様化なんだよ」と、水中や地上には色々な虫が蠢き、空にはトンボやツバメが飛んでいる。一見のどかな田園風景。自然風慣行農法(自然猿真似=自然のミニチュア=箱庭版)の憧れですが・・・。過去の「心象風景」。所詮、ミニチュア。現実問題(人口増、環境保全・修復)に対応できません。
環境保全力:
その場での“いのち”の活動量(生物量x活性度)で決まり、自然状態で、その「地」で生きられる生物の最大量は、その地の自然環境で決まる。低緯度地方ほど、その絶対量(生産量)が大きく、地上部が多様・増大化。これは地下の微生物相の脆弱性を地上部が補っている姿である。そして、高緯度になるに従い絶対量は小さくなり、地上部は一様・単一化。地下の生物相も脆弱。死んでいる有機物(樹木の大部分)の蓄積量は多いが、低温のため生産量が少ないためである。

虫だらけ雑草だらけの水田では、土壌微生物相が脆弱で腐敗がある証拠。土壌の浄化が不十分で病害虫が発生し、不味い米が少量しか穫れません。また腐敗した水田は、環境汚染源です。
畑も同様、腐敗分解では最終的に硝酸まで分解が進み、結果的に肥料汚染(硝酸などによる地下水汚染や河川、海の富栄養化)を招きます。また、団粒化も不十分で、保水力がないため洪水などの環境破壊の要因となっています。
土壌微生物相が脆弱:
慣行、有機、自然いずれの栽培法でも、汚染度が同程度なら微生物相も似たようなもの。実際に多くの圃場で、転換時の浄化速度・期間に大差が見られない。原理を知り人が適度に手を加えない限り、土壌微生物相は豊かにならない。長期の耕作放棄地でも高度汚染地は珍しくない。

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自然を己のために・・・(名前は要らない)

自然農法の定義は、曖昧で定まっていないと言われます。それは本質を知らない者の戯言。定義はいたって単純・明快。唯一、絶対ぶれない基準。自然=法則。「自然を基準においた農業」ただ、それだけ。

見かけの自然とは無関係です。人が森林から樹木をなくし、農耕地に替え土地を使うからには、無駄なく徹底的に使い切る。環境保全・修復のためには、ここまでやらなければ十分とは言えません。
人(ヒト)も自然の一部(生きもの)。人が自然を己のために変えても、使い切れば自然全体がより豊かに安定化。生産性も高まり、環境保全になります。これが本来あるべき「農」の姿。自然の法則に則った真の「自然農法」。これからの農業です。

面白いことに、樹も無く虫もいない畑に、何故か?普段は森にいる小鳥がやって来ます。樹はなくても、小鳥には森林と同等の環境に映るのでしょう。勿論、受粉などに必要な昆虫は、蜜を求めて集まってきます。
しかし、無用なものは消えますから一々それらに、呼び名など付ける意味などありません。虫は「虫」、菌もただの「菌」で十分。また、残る方の作物も、人は何を育てて貰うか選ぶだけ。イネ、野菜、果樹、程度の分類で特に不自由はありません。

 

 

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