たんじゅん能全国世話人、井中 門さんが2年ほど前にHPの記事にしたいと取材を受けた記事です。「たんじゅん農の理学(上)」はこちらです。下の文章は(上)に続く文章)後編)です。

<Q>農業ならば、争いのない自然と調和する法則を見いだせると思ったからですか?

<A>初めは農業には興味はありませんでした。けれども「命とは何か」について考えていたら、「食べることと命の問題が根底で同時に成り立つ仕組み」が、自然界にはあるのではないかと気づきました。

そして、その食を担っている農が、自然の理からはずれ、同時に、人間が虫と農薬で争っていることを知りました。一番人間が戦争しているのが、農業です。

そして、農業に限らず、医学、教育、経済、国際問題の混乱は、すべて同じ原因だと思うようになりました。

その原因は、人間が、人間を基準に、すべてを判断していることにあるのではないでしょうか。

人間の頭を、人間基準から、自然基準にすることができれば、すべてがまともになるのではないかという仮説です。そのため実験、実証をすることが、理学です。

手始めに、まずは、元気でおいしい野菜を育てることから始めました。農業が一番自然基準かどうかが見えやすく、早く実証できるからです。それには、人間を先生にしないで、野菜や畑を先生にすることから始めます。、

ほとんどの農業は、人間の得た過去の知識を土に反映させています。自然農と言われているものも、人間の言っていることを先生にしています。

ところが、野菜を先生にしてわかったことは、野菜を作ることはできないということです。

 野菜を作ることは出来ないが、自然の仕組みに沿えば、野菜はできちゃうものだと、わかったのです。

 

<Q>先生とは、モデルや理想にしてきたということですね。

<A>農業に限らず、政治も経済も医療も、人間を先生にしてきたのです。しかも誰かを先生にしているようで、実は自分を先生にしています。なぜなら誰かを先生にするのも自分です。自分の判断を基準にしているからです。これが争いの元なのです。

ところが自然を先生にすると「こういう農法がいい」とか「自給自足が本当」というのも、実は人間基準だと気付きます。

人は空気を自給できませんし、 心臓が動く仕組みを自分でつくっていません。自然の仕組み、働きがあっての「人間」「自分」だとわかります。

たんじゅん農は、田畑が先生です。たんじゅん農だと数ヶ月、長くて数年で実験結果が明らかになります。

命の仕組みに沿って、自然を先生にする農業をやっていけば、食料の争いも、そして考えの争いも同時に解決する道がある。さらに「人間」とは何か。「自分」とは何かの答えがあると思ったのです。

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<Q>たんじゅん農では、手付かずの自然をよしとし、何の働きかけもしないということではないのですね

<A>よく「肥料や農薬を使わないでどうしてできるのか」と尋ねられるのですが、実際に作物ができます。しかも美味い。人間だって、薬を使わないで、健康に生きていけます。

逆に自然農法で「何もしないのがいい」という考えもあります。それも人間を先生にして、実は自分の考えを信じています。

もしも、何もしないのが本当であれば、畑を作ることもできなくなります。それでは、人間がサルになるしかありません。

人間も自然の仕組み・働きに沿って生きるようになっています。それが宇宙の原理です。

人間には、自然の法則を知り、それに沿って応用し、みんながイキイキとする社会を作る役割があります。たんじゅん農もそのための一つの仮説として、実践しています。

天才だけが田畑をやれるのでは、自然ではありません。誰でもどこでも、地球上の人間は生きていける。食べものを食べていける。それが当たり前です。その原理はあるけれど、知らないだけなのです。

それを見つける能力が人間にはあります。それを見出すのを邪魔しているのが「自分」基準、自分が先生という考えです。人間同士争い、虫や病気と戦争しているのも「自分」です。

実際、「自然が大事だ」という人も虫と戦っています。また「美味しいから野菜に虫がつくのだ」という人がいます。食べ比べてみると、虫の食う野菜はエグみがあって美味しくない。その原因は肥料にあります。人間が野菜をまずくし、虫を寄せ、虫と戦争をしている。野菜嫌いな子どもが多いのは、正常なのです。虫が食べない発酵型のピーマンなら、甘くて美味しく、子どもは喜んで食べます。

人間が自分で問題を起こして、「平和への努力」をしている。我を張るからガンバルのです。それはムダです。初めから、理に沿えば努力は要らないのです。それには自然を先生にすることです。

 

<Q>普遍的な法則を見出し、利用すればうまくいくのに、それを妨げているのが、「自分」という概念だというわけですか?

<A>こうして触れる身体をたいていの人は、「自分だ」と思っています。でも、本当にそうでしょうか。身体は自分が作ったものではありません。自然の贈りものです。それを借りて動かしているだけです。

いわば身体は自動車。自分は運転手です。自分が自分の目や脳ですべてを判断している限り、他との争いが続くだけでなく、心の平穏も訪れない。かといって宗教の言うように「無になれ」はどうでしょうか。運転手は必要だからいるのです。ただ、真の役割を知らないので暴走をしているのです。

 

<Q>役割を知るにはどうすればいいでしょう?

<A>自分を先生にしたり、自分の考えを正しいとするのではなく、自然を先生にする。自分から物事を見るのではなく、向こう側から自分を見る。でも、これは哲学者や宗教家になることとは違います。本当はどうか、やってみて自然に答えをもらう。事実ありのままを観る。

畑をやっていてわかるのは、ダイコンは自分がつくったのか?ということです。確かに種を蒔いたのは自分です。けれども、根の白いところも、葉の緑も自分がそうしたのではない。そうなった。しかも肥料もやらないのにできた。そうなると、ふつうは「自分がつくった」と言うけれど、どこにも自分が作ったものはない。ダイコンができた。育った。ただ人間が少しお手伝いしただけです。

空気がなくなると3分くらいで人は死にます。それくらい大事な空気は誰がつくったのか。最も大事といわれる「命」は、誰が用意したのか。人間、自分は誰が用意したのか。

すべては宇宙の法則、自然の仕組みや働きがあって存在し、動いています。それを用意したのは、人間や自分ではありません。自分で作ったものは一物もありません。

人間という存在は知恵を持たされ、それを活かしあう役割として存在しているのではないでしょうか。

若い方には、本格的な農業でなくていいから、土に触れてみてはどうかと思います。いまは、人工的な環境が多くなって、土に触れる機会が減っています。しかし、土は生き物の原点です。

自然に触れるとわかってくることがあります。自然は雨が降ろうが、日照りになろうが生き続けています。どんな環境になろうが、地球はこれまで生き続けてやってきた。

土に触れ、生き物が生きて育っていく仕組みと働きが感じられれば、自分もその中で生かされていることが感じられ、生きる力が湧いてきます。そうすれば人間の知恵の役割が観えてくるかもしれません。

[文責・尹雄大 撮影・渡邉孝徳]

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井中 門 inaka mon

たんじゅん農全国ネット世話人。
1941年、東京生まれ。広島大学理学部化学科卒、理学博士 (物理化学)。 70年、広島大学助教授。92年、51歳で広島大学を辞職。2009年、たんじゅん農と出会い、実践を行うとともに、たんじゅん農全国ネットの世話人として全国を廻り、実践者との交流を行っている。主な著書に『人と自然を原子の目で見る』『地球はえらい』『資源・環境・リサイクル〈2〉自然の循環 食べモノとウンコ』など。

ホームページ:http://tanjun0.net/

『人と自然を原子の目で見る』(仮説社)

『地球はえらい』(福音館書店)

『資源・環境・リサイクル〈2〉自然の循環 食べモノとウンコ』(小峰書店)